カール・アーノルド(作曲家)
thumb カール・アーノルド(Carl Arnold、フルネームFriedrich Carl Gottfried Arnold、1794年5月6日 - 1873年11月11日)は、ドイツのピアニスト、作曲家、指揮者、教師、オルガニスト。1848年からノルウェーのクリスチャニア(現オスロ)に住み、同市の音楽生活において重要な役割を果たした。
==生涯 アーノルドは1794年、チェリストで作曲家のヨハン・ゴットフリート・アーノルドとその妻ルイザ・カタリーナの息子としてバート・メルゲントハイム近郊のノインキルヒェンに生まれた。1806年に父親が亡くなった後、カールはヨハン・アントン・アンドレの養子となった。アンドレの弟子であり、ゲオルク・ヤコブ・フォルヴァイラー(Georg Jacob Vollweiler)とアロイス・シュミット(Aloys Schmitt)の弟子でもあった。1815年にピアニストとして初めてフランクフルトでコンサートを開き、以後ベルリン、プラハ、ウィーン、ライプツィヒ、ワルシャワなどヨーロッパの都市でコンサートを開いた。<ref name=leksikon>"Carl Arnold" ノルウェー大百科事典', 29 June 2022.Retrieved 5 February 2023.</ref><ref name=adb>テンプレート:Cite ADB</ref><ref name=weber>"Arnold, Carl" Carl-Maria-von-Weber-Gesamtausgabe', 23 September 2020.Retrieved 5 February 2023.</ref>.
1819年からサンクトペテルブルクに住み、教鞭をとったりコンサートを開いたりした。1824年にベルリンに移り、プロイセン宮廷で教えた。1835年にはミュンスターの音楽監督となり、ヘンデル、ハイドン、メンデルスゾーンのオラトリオを指揮した。
1848年、アーノルドはクリスチャニア(現オスロ)のPhilharmoniske Selskab(フィルハーモニー協会)の指揮者に任命され、以後数年間は同市の音楽生活において重要な役割を果たした。1858年からはトリニティ教会(オスロ)のオルガニストを務め、オスロで最初のオルガニスト・作曲学校を設立した。彼の弟子にはHalfdan Kjerulf、Otto Winter-Hjelm、Johan Svendsenらがいた。1873年にクリスチャニアで死去した<ref name=leksikon/>。
==家族 1820年にピアニストで歌手のヘンリエッテ・キスティングと結婚。息子カール(1824-1867)は著名なチェリストとなり、1846年から47年にかけてサンクトペテルブルクとスカンジナヴィアへの演奏旅行に父とともに出演した。
==作品 アーノルドの作品はアーレイ・フォン・ドマーによって「威厳があり、芸術的センスを示すが、特に独創的ではない」と評された。<ref name=adb/> 彼は交響曲、ピアノ曲、室内楽曲、特に弦楽四重奏曲とピアノ六重奏曲を書いた。オペラ「イレーネ」を作曲し、1832年にベルリンで皇太子の誕生日に上演された。
ノルウェー時代には、1860年にトロンハイムのニーダロス大聖堂で行われたシャルル15世の戴冠式のためにアンドレアス・ムンクのテクストを用いたカンタータなど、公的な機会に委嘱された作品を制作した<ref name=leksikon/>。
==参考文献 {参考文献リスト}}
==外部リンク
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